ヤマサクマイニチ24 2020年1月17日(金)誰かのせいにするひとはしあわせな世界に生きているのだ

この曲が

昨日の晩10,000再生を越えた ありがとう
119日分の「山作戰のだら?だら!大作戦」でコーラスを入れたバージョンが流れるのでおたのしみに
昨日はその次の週 26日分の収録の日だった

俺は音楽を作る作業もラジオの収録も You Tubeの生配信「なまぼくはげ 男の30分」についても自分独りでセッティングしてやることが多い
簡易的な音響機材を持っていってのライブもそうなのだけれど これは俺がメジャーを目指さなかった メジャーデビューしなかったからそうなってると思っている

もちろんプロのひとに頼んだほうが質が高く 経験値も豊富なのでトラブル対応だって適切だったりすることが多いけれど そこはもう いま規模ではしょんないのだ しょんないのか?

プロに頼めていたら失敗したとき「お金払ってるんだからちゃんとやってよ」と言えるだろう しかし失敗に終わってしまってそのひとのせいにしても成功するわけじゃない
犯人さがしなんかしてもその大切な1回は戻って来ない

例えば自分や大切なひとがクルマに跳ねられて死んでしまったとして跳ねた相手のせいにしてもお金などもらえることはあっても生き返ることは当然ない
「お前が跳ねたせいで死んじゃったじゃないか」と言っても始まらないし 自分が死んじゃってたらそれを言うことすらできない
誰かのせいにできるということは そういう世の中の責任論みたいな世界の中にまだいられているってことなんだろう

台風や地震でひとがなくなったとき 台風や地震のせいにして納得するひとはいない これは責任論がせまい人間の世界にしか通用しないからだ
だから国や自治体 企業のせいにするしかない せいにしてもそのひとは戻ってこない
できない納得を飲み込む姿はある意味 死だ だから切ない

なにかを達成したくて生きているとき 失敗をなにかのせいにすることは無意味だ 達成しか落とし所がないのだから当然 誰かのせいにしてそのひとが謝ったら納得できる世界に生きてないからだろう
責任論の世界からはみ出してしまっていて 俺で言えばその一度を失うことは
そこでもし完璧なそれを観ればお客さんになってくれるはずだったひととの永遠の別れになりうる
つまり 出会えたはずの演者としての俺 または お客さんとして楽しむそのひと どちらか またはどちらも その意味では死んじゃっているのだ

死なないようにその一回をやるしかないし 敗れたら自分の不甲斐なさにハラワタをグツグツじっくり煮えくり返しながら せめて原因を究明して二度と死なないようにつぎに備えるしかない
不幸にも運良く 生命的な意味では死んでないのだから

専門のプロに頼む予算がないせい スタッフが少ないせい 年齢のせい なにかのせいにしてあきらめ切れれば世話はない
しかしあきらめそこなった以上もはや 責任論の範疇にないのだから 生きなければいけないし 生きたい 毎回死なぬように生きたいのだ

死んだせいにして あきらめ切れないだろうし

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