SNS時代 イベントを企画したり我々で言うとライブイベントをやろうとすると
「その日は行けません」と書き込むひとが多数いる
昔にくらべて減ったけれどまだいる
行けない理由は様々
そのひとにとって 社会にとって ひととして 大切な何かしらの理由が書かれる
それをイベントをやる側は「書かないで欲しいなあ」と眺めてるのをご存知だろうか
なぜか
それはそのひとにとっては大切な理由であっても イベントにとっては大切じゃないからだろう
そしてその書き込みでイベントが盛り下がることはあっても盛り上がることは絶対にないから
行けない理由 本当は行きたいという思いを伝えたい
きっと行かない理由を聞いて赦して欲しいのだろう
気持ちはわかる気がする
しかし次のライブに イベントに ちゃんと来ればいいだけの話なのだ
毎回ラストライブのつもりで最近はやってるけれども生きてたらまたライブに来てくれればいい
大人の社会と子供の社会の大きな差の一つが親しくないひとには言い訳すら聞いてもらえないという点だと思う
俺も大人になって知らないひとと仕事などで関わるようになって「言い訳を聞いてもらえたあの頃はなんてしあわせな世界だったのだろう」と思うようになった
大人って「なんでこんな事態になったんだ!?」と言われて答えると「言い訳するな!」って言われるよね
そう 言い訳は そんなにいつも聞いてもらえる訳ではないのだ なのについしてしまうし聞いて欲しいよね
ライブで失敗したり喉を潰したりして言い訳をしても うたが上手になる訳ではない
事情を踏まえて手加減して聴いてもらっても興ざめしたひとがまた熱狂することもない
言い訳はむしろすると不利になることのほうが多いんだと思う
しかしそれは演者の理論で 我々はもう少し優しくお客さんの言い訳を聞いてあげないといけないんだろうな
とは思いつつ
たとえばライブの日「今日は寒いので行きません」ならあきらめがつく
「まばたきをする間に眼球の表面が凍ります」くらいに寒いのならしかたないよ 俺もライブ会場へたどり着ける自信がないよ
しかしそうではないのだから「行きたい」にまさる「家にいたい」がある以上仕方ない
家族の用事がある 会社の仕事 飲み会 そちらに出るということは大人としてちゃんとすることを選んだということだ
優先順位がそうなんだから仕方ないし普通だ
ちゃんとしたいということが山作戰より大事ならそれでいいじゃないか
それを誇って欲しい というか 誇りなさい
たとえばこういう例もある 次のあのコンサートのために周りを納得させるために 今回はあきらめた
そう 未来への布石
それは勇気ある撤退とも言える
無理をしてボロボロに身を持ち崩して まわりとギクシャクして一度切りライブに来られても困るしね
そういうひとのやりくりだって 俺はうれしい ほんとのことよ
それでもね
「駄目よね いけないとわかっていたのよ 配偶者のあるあなたの家に こんなにずぶ濡れでまた来てしまうなんて」
というひとのように
「来ちゃった 課長の送別会だったんだけど 抑えきれなかった いけないとわかっていたのに止めきれなかった 抜けてきちゃったの送別会
……課長を連れて」
とかってなっちゃったのなら称えるよ 山作戰を全然しらない課長と気まずくても我慢するよ
ひととして 社会人としてはどうかわからないけど 山作員としては伝説になる
山作員に収まらず ロックファン界に轟く偉業だと思う 気まずいけど 課長も俺も
ライブやイベントに来なかったことを後ろめたく思うひと 思う必要はありません
それでも後ろめたく思ってしまうのなら 謝ったり書き込んだりしてもそれを挽回することは絶対できない
方法はただひとつ
次のライブやイベントに参加して楽しむこと
それですぜ うん それしかない たのしもう!