【山作言】2019年11月07日「なにもしないをしてるんだよ」

小学生の頃から「くまのプーさん」の本が好きだった ディズニーデザインのものより本の挿絵のほどよく情けなくてかわいい版画みたいなやつ
「ディズニーのやつなんか観るものか」と思っていたけれどあるとき「名作アニメ何本立て」みたいなやつでたまたま観てしまい 絵本をかなり大切にした印象で面白かったので赦してやったけれど 絵柄がアメリカンでやっぱり嫌だった

曲を作る前 ラジオを録音する前など 何かを作ろうとする前には なにもしない時間が必要だ

ネットでもたまにプーさんが「なにもしないをしてるんだよ」みたいなことを言ってて深い 的な記事があったりするけれど これは必要な「なにもしない時間」なのであって「なにもしてない」訳ではないのだけれど 結局はなにもしてない

理解されるまで「売れてるひとならまだしも 売れてないうちはなにかして」みたいな言われ方をしたこともある しかしだ 考えてみて欲しい

売れてる凄いひとがやってることをこれからのひとが省いて効果を出せるだろうか?

例えばノリノリで演奏している凄いひとがいたとする
凄いひとだから楽しんで演奏できて身体が動く という一面は確かにある 確かにあるものの ノリノリで演奏するから凄い演奏ができるという一面を忘れてはいけない
すごくないやつはまずとりあえずノリノリで演奏するべきなのだ
すごくないならまずは身体を動かせ 凄くないからこそノリノリでいけ! どんといけ!

なのに凄くないやつは凄くないからノリノリで演奏することを恥ずかしがる 「凄くもないのにノリノリで演奏したら申し訳ない」
誰に申し訳するのだ 俺は髙山真徳(まさノリ)なんだぞ!ノリノリの申し子だぞ 俺が赦す

それでも凄いひとが実践してるいい演奏の条件に凄くないひとは抵抗を感じてしまうことが多い 下手くそでノリノリは恥ずかしいのだ

つまり「富める者ますます富み 貧しき者持っている物さえ取り去られるのである」 ―新約聖書マタイ伝13章12節―」は音楽でもそうなのだ

もはや 「あのひとめっちゃノリノリだけど全然弾かないね ノリノリだけだね」だっていいくらいなのに
ノリノリの前にノリノリなし ノリノリの後にのみノリノリがあるのだと

話を戻すと なにもしないをする 必要が俺にだってあるのだ 糸井重里さんも 米津玄師さんも しているという制作のための「なにもしない(ように傍からは見える過ごし方)」を俺がしなくてどうする!

そんな訳で俺が 畳の目を数えたり You Tubeの動画は観ずにコメント欄でもめてるひとのやり取りを読んだりしながら過ごしていても それは なにもしないをしているんだよ

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