なぜか昔話を
10代の頃 大手レコード会社Sのプロデューサーに色々アドバイスをいただく時期が1年くらいあった
交通誘導員の仕事で疲れ果てながらやれ「ジャーニーみたいな曲を作れ」「エリック・カルメンみたいな雰囲気で」と言われて作って行くと「違うな」と一言 また作って来てと帰されたけれど 夢につながるたったひとつの光に思えて必死でそれに応えようとした
戸越銀座商店街に面した中華屋の3階に住んでいた時期だった
その家は夜中寝ているとたまになにかの叫び声が聞こえるのだけど 日々疲れていたし翌日も早朝から道端に立たなければいけないのでまどろみながらそれを聞いていた
プロデューサーとは最終的に事務所みたいな部屋にマイクを立ててWANDSみたいなアレンジをされた「愛」という曲のデモテープを録ったが その後 連絡しても都合が悪いから今度と言われた
その直後のある日 羽田あたりの大きな工事現場の交通誘導に派遣された 俺は何十人も同じような誘導員がいる中の1人 昼過ぎには終わるという話だったが一向に終わる様子がない
少し記憶があいまいだが 俺は財布の中にお金がなくて仕事終わりに銀行からおろさなければ帰るお金もなかったので 現場を仕切っている誘導員に
「あがらせてくれないか」と言うと「俺に言われても権限がない もう少しのはずだ」と言われ結局5時を回っても終わらず 俺は無一文で大田区のはずれの現場に取り残された
しかたがないので歩いて帰る
スマホもない時代 道端にある地図を頼りに大きな道路を目指して進み その後は距離よりもわかり易さを重視して進んだ
一日中立ちっぱなし 途中工事の移動があると走らなければならない仕事 ヘトヘトだった
おそらく10キロくらい歩いただろう
交通誘導員は安全靴というつま先に硬いガードが付いた靴を履いている 長く歩くようには出来てないので靴ずれができ かかともつま先も痛かった
交番の前を通った
その瞬間友達から聞いた「財布をなくしたときなど困ったら交番に行けばお金を貸してくれる」という話を思い出す 俺は交番に入って出てきた若いお巡りさんに事情を説明した
するとそのお巡りさんの口から 想像もしてなかった言葉
「お前 その手口でいろんな交番で金を借りてそのままにしてるだろ」
一瞬何を言われたかわからなかったが 直後やっと理解できた その途端 怒りと悲しさがこみ上げた 立ち上がるとパイプ椅子が倒れた 気にせず交番を飛び出す
流れそうな涙を我慢して圧が上がり目が痛い 駆け出そうとした刹那 パトカーを停めるためと思しきスペースに並べてあったカラーコーン(道路に置いてある赤い三角の保安器具)を4つ ひとつひとつ遠くへ蹴り飛ばした つま先が痛かったがどうでもよかった
そこからはずっと涙と足の指の痛みを我慢して足早に歩いた 何かが胸の中で燃えるようで速く歩けた
帰ったらうちの2階にある喫茶店「アリス」のおばちゃんに相談してみよう 行きつけだし 長崎のひとだと言ってたから九州のよしみでわかってくれるかも知れない 明日は休みだから昼間まで寝ていよう アリスのおばちゃん 水前寺清子にちょっと似てるな などと必死で楽しいことを考えながら腕を振ってワシワシ歩いた
家についたのは7時過ぎだったろうか
中華屋さんの横の階段を登り喫茶アリスの前を通って脇の入口を入ると右手に郵便受け 左側にアリスのお勝手に繋がるドアがある
そのドアをノックするとアリスのおばちゃんが顔を出した
「あら お兄ちゃん どうした?」
事情を伝えるとおばちゃんは「なんね よかよか 荷物を置いてこんね」と少しわざとらしく聞こえる九州弁で笑った
誘導灯やヘルメットなどの荷物を冷たい部屋に置いて階段を降りて表の入り口から入ると換気の悪い店内にはすでにいい匂いが充満していた
限定メニューのハンバーグ定食 値段も少し張るので給料の後にだけ食べることにしてるメニューだった 500円の定食にしようと思っていた俺は困惑した
それを察してかおばちゃんは「サービスたい!」と言う
鉄板にのったハンバーグが運ばれてくる おばちゃんの笑顔
フォークとナイフを持ってハンバーグを切って口へ運ぶ
「ご飯おかわりしてね」
おばちゃんの声が遠くなる 俺は泣いていた 泣きながらご飯を口へ詰め込む
おいしさと嗚咽とのタイミングがちぐはぐで苦しい おばちゃんは笑って味噌汁と これも食べてと肉じゃがをもってきてくれた 涙が止まらなかった
食べ終わる少し前 あの警察官の姿が頭に浮かんだ 振り払おうとすると なぜかその顔はレコード会社のプロデューサーになっていた
「もうレコード会社に連絡するのはやめよう もう悲しい思いはたくさんだ」
自分に言い聞かせると少し気が楽になった
おばちゃんにお礼を言って部屋へ戻りシャワーを浴びていると 急に曲が作りたくなった
クタクタで満腹で眠たいんだけれど 作らなきゃいけない気がする
その頃作曲に使っていたキーボードに電源を入れて打ち込む なかなかよいメロディーだな
打ち込んだものを聴いているうちに俺は寝てしまったようだった
窓の外からの怒鳴り声で目が覚める
顔を出してみると1階の中華屋から酔った中国人の騒ぐ声がしていて それに対してアリスのおばちゃんが抗議しているようだった 時計は12時30分
騒いでいるのは営業を終えた中華屋さんの店員だろう
「長崎の女ばなめたら承知せんばい!」おばちゃんが叫ぶ
これだ…このリズム
俺がいつもまどろみながら聴いていた声はこの台詞だったんだなあ と少し笑って窓を閉めると俺はせんべい布団を敷いてもぐりこんだ
ちなみにそのWANDSみたいなアレンジにされた曲 「愛」は30年弱のときを経てメロディーも構成もそのまま生まれ変わった
山作戰「折れない心」がその曲です
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